ご由緒

妙見神社のおみちびき

妙見信仰は北辰=北斗星・北極星の信仰に始まるものです。

太古の昔から太陽・月・星の運行を神秘的なものとして崇められてきました。

妙見神社の御祭神 天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)を神格化する北極星は、常に北を指しています。昔から旅人の指針として仰ぎ見られてきたことから、人生の道を導き開いてくれるおみちびきの神として深く信仰されてきました。

病を良い方向に導く

仕事を良い方向に導く

商売を良い方向に導く

恋愛を良い方向に導く

勝負事を良い方向に導く

学業を良い方向に導く

受験を良い方向に導く

お参りをして迷いを断ち切り、良い方向におみちびきいただきましょう。

神社概要

神社本庁包括神社

ご祭神 天之御中主命
鎮座地 佐賀県唐津市藤崎通7022
氏子数 300戸
特殊神事 なし
宮司の兼務社 二タ子神社 塩屋神社 二社

妙見神社御由緒

妙見神社は古代大和時代の西暦七〇一年の大宝元年に文武天皇よりご神地を賜り『天乃御中主神』を鎮祭せられたり。
年号はこれより五十六年前孝徳天皇の西暦六四五年に大化の年号が最初で本年は一三一五年目となる。大化の改新(六四六年)

西暦八〇四年
平安時代の初期桓武天皇の延歴二三年に『大恩智妙見宮』と崇め奉るべく宣旨あり、太宰官、伊佐兵治は社殿を再建す。

西暦一〇九八年
平安時代の末期、堀河天皇の承徳二年に大中臣 藤原資仲は社殿を再建す。

康和四年(一一〇二年)
波多源次大夫は岸岳城を築き波多家の開祖となり北肥前八万三千石を領す 

西暦一一一九年
鳥羽天皇の元永二年八月大中臣藤原朝臣清親公は肥前の守護職に任ぜられ国内巡視の途この松浦妙見の里にて濃霧の為道に迷いし時、忽然として神火が顕れ方角が定まりしにより、直ぐに祠を建立し社宝を奉納され、『妙見大菩薩』と号せられて国の安泰と万民安楽を祈願せられたり。

西暦一一三三年
崇徳天皇の長承二年六月 この松浦地方に疫病が蔓延せしこの時この『妙見大菩薩』に祈願、直ちに平癒せしにより其の由縁に因り修験者誠徳院宝成坊は同年八月一宇の寺を建立し(安楽山大平寺)と号し宝成坊自ら宮司となり奉仕せり。
神仏合祀の聖地として栄えたり、保元の乱(一一五六年)平治の乱(一一五九年)起こる

西暦一一八七年
鎌倉時代の初期 後鳥羽天皇の文治三年源頼朝公は宮崎氏を妙見宮大宮司に定補せしも元家の代に至りて罰せられる。
宮崎氏は草野家の一族である。罰せられし理由は不明

西暦一二七四年
亀山天皇の文永一一年 藤崎浦に蒙古の兵船現れたるにより鎌倉の将軍恒崇親王より忌徹退散の祈願を仰せ付けられ、霊験ありて神領を賜り改めて宮崎家を大宮司に補命せられたるも正応二年(一二八九年)二月鎌倉の将軍家より浦部継従を大宮司に補命せり(理由不明)
此の頃より300年もの長い間に鎌倉時代の源氏も一二一九年に、北条氏も一三三三年に滅亡し、平安時代の足利氏も一五七三年に滅亡、そして戦国時代と時移り世は変わりそして残されたものは何一つなく、この北肥前の地にも血生臭い時代で上下の秩序も忠義もなく、領主波多家を中心に各地の武将達が武力のみに物を言わせ、戦の明けくれであった時代であり、陰謀、策略の横行のみで、何一つ正史的な資料もなく、文字による記録等は更になく、ただ武将の面影を偲ぶのみで、歴史上の暗黒時代であったらしく、そして一五七六年の天正四年には信長安土城を築く。

西暦一五八六年
後陽成天皇の天正十四年領主波多三河守親(好清)は社殿を再建し武運を祈願す。
親(好清)は波多家第十七代領主で最後の岸岳城主である。この波多家は遠く皇孫の裔で代々武功の家柄であり、十七代五百有余年の連綿たる肥前の名家であった。秀吉の憤怒に触れ、岸岳城は廃城とされ波多家の所領を没収し、家臣を放逐し、しかもこれに追討ちをかけるが如き、如何に天下の秀吉とてあまりにも無残な仕打ちであった。
境内の薮の中に波多家の家臣の追腹、殉死者(岸岳末孫)の墓が点在し荒れ果てて当時の面影が偲ばれる。時は文禄三年(一五九四年)五月三日である。

西暦1592年
後陽成天皇の文禄元年正月筑前の漁夫三人は讃岐の金毘羅参りの途中大暴風の為船と共に漂流し、この松浦の郡妙見の浜辺に上がり『何ぞ吾が身に不浄なきや』とこの妙見宮に御加護を祈りしに、直ちに白髪の貴翁顕れて(詔り曰く)『汝等を庇護せん神は宵の明星にして の声を堅く禁じて行をせよ』と、漁人達は汪然となりて大般若を被り護摩を焚き、二十一日の行を終えて、この地を発し、途中大漁を得て無事金毘羅参りを為し、神前にて肥前松浦の妙見宮の里の北面山の地に大神在りて御託宣ありたるに旨をお告げ拝みたりと記せらる。
同年五月 太閤は征夷の祈願と共に社宝を奉納され『北面山妙見宮』と号し宮司は延徳院藤波坊が奉仕せり。
境内に現存する金毘羅社はこの時の分霊を祭る。

西暦一五九七年
慶長二年 前田利清(前田肥備後守利勝の三男)は若くして信長に仕えしも、本能寺で信長に討たれてより、弓矢取る身の無常を感じ、諸国放浪の末、この妙見宮に辿り着き修験者として奉仕せり、後矢筈の里に神社を建立す。

元和元年(一六一五年)
豊臣氏滅亡。

西暦一六一九年
後水尾天皇の元和四年唐津代藩主寺沢志摩守(寺沢広高)は、加藤清正が秘蔵し信仰せし妙見の尊像を奉納し、同九年には御供米および金子の寄進あり。

西暦一七六一年
桃園天皇の宝歴十一年藩主土井大炊守(土井家四代 土井利里)の直参ありて、社地を寄進し、社殿を再建されて同一二年三河国古河に転封せらる。

西暦一七六五年
後桜町天皇の明和二年水野家初代藩主水野忠任公は、水野家代々の代参を恒例とせられ、安永四年には藩主の直参あり。
天明五年には鳥居、石塔の寄進あり。(現存するも破損)明和八年(一七七一年)虹の松原にて一揆起こる。

西暦一八〇四年
光格天皇の文化元年十一月北面山鳥居を建立す。
拝殿横に現存す。『長成願利三大霊視』の刻印あり。

西暦一八一九年
仁孝天皇の文政二年に藩主小笠原長昌公は船路安全の祈願所として信仰せらる。
文政六年江戸にて逝去せらる。

西暦一八六五年
孝明天皇の慶応元年六月石燈籠六基、同四年に二基を献灯せらる。
現存す(一基埋没)
須藤芳蔵藤原清明、吉田八右衛門源清兼、の刻印あり。
此の頃は幕末期で幕府の評価もいよいよ低くなり、当然幕府の監視も厳しく複雑な幕末の時運を起こした時代で年号が六回も改められる等々内外に未曾有の難局に(主として国体を如何に護持するかという事に)直面した。

慶応三年(一七六七年)
大政奉還。

西暦一八六九年
明治天皇の明治二年神仏分離令により神社を寺院より独立せられし時、当時有力なる世話人なき為、不幸にして神社明細帳に脱漏されたるも、同三年神祇官より無格社として登録許可あり。
神仏分離により各地にありし格式の高い多くの社寺が廃され、社、寺宝、及び貴重な資料等が紛失され分散された。
同年表正面の石段を設置す(現在の裏参道)

西暦一九一三年大正二年
境内に在りし信者寄進の『竹の森稲荷社』と『杉の森稲荷社』を合祀し本殿横に社を建立し、大正四年には、本、拝殿を再建す。

西暦一九三三年
昭和八年村社に例格し、間もなく郷社に昇格す、宮司に本城信松氏奉仕せらる。昭和九年には生目神社(在宮崎)の分霊を祭り祠を建立す。

西暦一九五一年
昭和二十六年四月御鎮座千二百五十年祭に臨み奉賛会を結成し式典を執行す。奉賛会より二番型御神輿及び調度品の寄進あり

西暦一九六一年
昭和三十六年八月改修奉賛会を結成す。

昭和十六年
十二月 太平洋戦争起こるや、戦火は火烈の度を加え、境内の地下は築港に駐屯せし日本軍軍需品の防空壕の構築を無余儀とされ、昭和二十年八月ポツダム宣言受託後の世相は、混乱と共に本殿に秘蔵されし社宝も進駐軍に押収され、神社の管理は疎となり、境内は沈下し諸施設は崩壊埋没し、本、拝殿は倒壊寸前となり、無関心のままこれを放置された現状に対し、本、拝殿の改修、社域の整備を実施し、神社の維持、運営については氏子の理解と協力を期待し、円滑な運営を要望し、昭和三十七年十一月解散す。

西暦一九六七年
昭和四十二年五月 宮司本城信松氏死去せらる。
氏は昭和八年より宮司として奉仕されて以来三十年の間、神社の昇格、そして戦後のあの厳しい過渡期にもよく堪えて、昭和二十六年には御鎮座千二百五十年祭の式典を斎行、乏しい私財をも投じて専心崇敬心の高揚に努められて、神社の基盤を築かれ、老躯を厭わず自作の紙芝居(孝子、貞平)を担いで山村まで駈け巡り、力の限りを尽くされ奉仕精神に徹せられた。帰幽七十八歳。後任宮司には子息の本城美臣氏奉仕せらる
のち、平成十二年本城徳子宮司就任

西暦二〇一一年
平成二十三年七月十九日火災により社務所消失

妙見神社の年間行事

一月一日 元旦 午前十時 元旦祭
一月七日 初七日 午前十時 厄除開運ドンド祭
二月七日 月次祭 午前十時 立春祭・厄除星祭
四月七日 春季大祭 午前十時 春季大祭
七月七日 夏越祭 午前十時 夏祭り・茅の輪神事
十月七日 例大祭 午前十時 秋季大祭(例祭)
十二月三十一日 大晦日 午後四時 大祓祭
毎月 七日 午前十時 月例開運祭